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人間は一生涯、あっちを見たり、こっちを見たりしながらさ迷ってしまうものです。わき見の人生という言い方をしますが、なにかよそにもっと良いものがあるのではないか、という思いがつきまとうものです。これは本能的なところなのです。
昔から、病気のときに転地療法というのがありまして、住む場所、環境を変えて見るというものがある。日常生活にずっといたのではそのことに気付かない。生活改革は出来ないけれど、禅寺にいって坐禅してみよう、お参りしてこようということが転機になる。
ラジオやテレビがない一日の坐禅の会を体験して、足が痛いけど坐蒲の上に腰を据えてやってみる、やってみると視点がかわる、それが大事なのです。
最終的には今という時、ここという空間の接点にある私の、個人の問題なのです。その完成の具体的な姿が坐禅の姿。あの坐蒲の上に本当に腰が据わるかと言うことなんです。
袈裟をかけて坐禅するのが行き着くところ、最終のところと言います。どこにいくのではない。あの黒い坐蒲の上がいきつくところなんです。それを信じてここしかないんだといって坐禅をするというのが坐禅。
でも、それが一番難しいんです。座ること自体は出来るが、本能、本性としての選り好み、計らいが持ち込まれる。だから坐禅堂の中に、そろばんを持ち込むな、と言うんです。坐禅をして何になる?3年座ったらどうなりますか?と聞いてしまうのは、人間にこびりついた習慣です。でも、坐禅、特に道元(禅師)の曹洞宗の坐禅は、何にもならないんだよと言っています。じゃあやめますといって辞める人がいる。でも、なんにもならないから尊いんです。
人間は明けても暮れても、二つの価値観。勝ったか負けたか、正しいか否か、幸か不幸か、うまいかまずいか、二つの中でどちらかという分別を求めます。そういう世界にいるといつまでたっても本当の意味での安らぎはない。人間の尺度は自分中心、自分の都合の良いものは正しい、思い通りになったことが幸せ、と思ってしまいますが、そうではないのです。例えば生まれることはめでたいと言われるし、死んだら涙にくれますが、仏教の眼からみれば、死ぬも生きるも病気も同じ生きている姿の一コマ一コマであって、いい悪い、幸不幸とは無関係であり、全部起こるべくして起こることなんです。
それを全部受け止めて生きる。その考え方をもっと進めれば、合掌していただくと怖いもの不幸はなくなる。逆に選り好みをたくさんしていると、際限ない悩みの中に人間はさ迷います。すべてはかけがえのない、もしくは縁のあるものなんです。同じ娑婆に生活していて、永遠に抜け出せない考え方から、すこしでも視点を変える、そうすると日常生活の中ででも心の安らぎをいただけます。とにかく坐禅が視点を変えてくれるのです。