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坐禅とは、「今という時、ここという場所にどっかり座ることができるかどうか、なのだ」と老師はおっしゃいます。その具体的な姿が坐禅なのです、と。そして、坐禅とは最終的には何にもならず、だからこそ尊いのだそうです。どうしても人間には分別や計らい、つまり計算をしてしまったり、勝った負けたなどの価値観に左右される本能的なところがありますが、坐禅は、それを落ち着かせることなのだそうです。正直なところ、ちょっと難しい…。
可睡斎では、修行僧が坐禅を行う僧堂で修行僧と一緒に坐禅を行うことが出来ます。凛とした張り詰めた空気の中、本物の修行を体験すると、何かを感じることができるような気がします。老師の言葉も少し分かったような、そんな気にもなるのです。

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本当に修行僧の方と一緒に坐禅をすることにまずびっくり。坐禅を行った場所は、僧堂の外単の縁。この縁もたたみの部分は触ってもよいのですが「木枠の部分には触れてもいけない」と、まず注意をされました。なんでも修行僧このわずか20センチほどの部分に食器を置き食事をするのだそうです。また、修行僧に修行期間中に与えられる個人スペースはなんとたたみ一枚のみ。そこで寝起きし、修行つまり坐禅も行うのだとか。そんな大切な場所にいるだけで、緊張してしまいます。
坐禅の入り方には、一連の作法があります。その作法に従いながら重心を落ち着かせ、ゆっくりと目線を45度下に落としていきます。同時に、呼吸、特に吐くことを意識していくと、だんだんと呼吸が整い、体が自然に呼吸を大きく行うようになります。
普段の生活の中では無意識に行っている呼吸を意識し、意識を研ぎ澄ませるという作業と、自分の重心を感じるという導入の過程は、ヨガにも似ています。

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坐禅の体勢に入ってからは、また緊張。「警策」で肩を打つ音がだんだんと近づいてくるのです。「警策」は、坐禅に集中するために頂くもので、曹洞宗では礼をしたあと必ず右肩に頂きます。その「警策」の音がだんだん大きくなって、自分の肩に軽く合図されたときが緊張の頂点でした。頭を左に傾けると「パシーン」と、痛快な音が堂内に響き渡ります。
日常を忘れ、非日常の世界に自分を置いてみるという経験は忙しい私たちにはなかなか出来ないことです。でも坐禅を組んでみると、自分を日々の緊張状態から解放できるような感覚を覚えます。終えた後は、なんだかすっきりして、また新たな気持ちで日常に戻ることが出来そうです。